2005年12月24日

本当の平和運動とは

「基地・軍隊は有益なものを何も生み出さない。破壊と殺戮のためにあるだけ。だから撤去するのが当たり前。」このような考えを持つことは自由です。しかし、基地が有益なものを生み出さないというのは明確な誤りです。

基地が北朝鮮などの脅威に対抗するための抑止力になっているという事実を無視して良いのでしょうか。ヘリ事故などで基地の危険性ばかりが強調されていますが、基地が無ければ、この抑止力も無くなり、危険以上の脅威に怯えなければなりません。

基地が戦争を起こすのではありません。戦争が起きないよう基地があるのです。たとえば、犯罪の予防のため、警察があるのであって、警察がなくなれば、犯罪がなくなる訳ではありません。無論、犯罪が根絶できれば、警察も不要になりますが、警察を先に無くしたら、一層、犯罪を増やしてしまうことになるでしょう。

無論、基地で事故が起きたなら、その原因を究明し補償などを充実すべきですが、いきなり基地撤去を叫ぶことは論理が通りません。

戦争に反対し、平和を求める心は軍人にも共通です。諸外国には軍隊・徴兵制・予備役制があるのが普通です。「良心的兵役拒否」も認められていますが、代わりに、社会奉仕活動が義務づけられます。つまり、諸外国では、軍役は社会奉仕であり、国民の義務と考えられているのです。

基地を平和の対極と見なし、「基地が無くならない限り平和はない」とか「軍人を殺人鬼のように敵対視する」思想はこれら諸外国の文化そのものを否定する、危険な一人よがりな考えではないでしょうか?一人よがりはテロリストの硬直した独善思想にも合い通じ、実際には平和のためにはむしろ危険そのものです。

私の知る軍人家族のほとんどは、とても優しい紳士・淑女で、自らの仕事に誇りを持つとともに、平和を愛し、信義・約束を大切に守ります。沖縄文化を受け入れ、地域に溶け込もうと努力しています。無論、犯罪を犯す者が居ない訳ではありませんが、軍人1人の個人的犯罪を軍人全体の体質と断定し、軍全体の責任を問うような報道姿勢は理不尽です。仮に沖縄県民の誰かが犯罪を犯したら、沖縄県民全員がその罪を背負わねばならないのでしょうか?

戦争を起こす本質的な要因は「偏見」にあります。異教徒や異民族を敵視することと軍人を敵視することに本質的な差があるでしょうか。真実の平和を築くためにはこの「偏見」こそ取り除く必要があるのであって、基地さえ取り除けば平和になると考えるのは本末転倒しています。

この本質を見誤れば、「平和のための戦争」すら可能になります。事実、現代の戦争やテロは「自分たちの平和を守るため」という大義名分の下に行われる事がほとんどです。個人的な憎しみの感情が戦争に拡大することはまれですが、それが偏見にまで増幅すれば、戦争をおこす原因になるのです。

米軍基地には5万人の軍人・軍属家族がいます。これだけの外国人がいることにメリットはないのでしょうか。

沖縄は地理的に諸外国との交易の要に位置します。沖縄は歴史的にもこの交易、つまり外国との交流の中に、繁栄の礎があったのです。世界に誇れる繊細な琉球文化は中国をはじめとする異文化交流の賜物です。

琉球だけではありません。歴史的な文化・経済の繁栄都市はほとんど例外なく、異文化の交流地点です。沖縄が地理的にアジアの要(上海まで820km、65分)であり、かつアメリカとの接点も多いということは極めて重要で大切な資源です。この大切な資源を活用しなければ沖縄の未来はありません。

大学院大学など、沖縄が国際的に認知され、国際ビジネスの拠点となるためにも、この5万人の存在は貴重でまたとない人的資源です。英語教育の掛け声ばかりを連呼しても成果はあがりません。身近な存在として5万人との交流を深めることが、文化・教育の質を高めることにつながります。

彼らを排斥していては、外国人観光客すら寄り付かなくなります。

ちなみに沖縄には500万人の観光客が来ていますが、その内、外国人はわずか15万人程度で、しかもその8割は台湾からの観光客です。沖縄が世界に羽ばたくためには、自らの偏狭な殻を破らねばなりません。世界で活躍するウチナンチューたちを見習い、国際的な常識が通じるセンスを磨かねば、孤立化・閉塞化して、観光立県もできぬまま窒息してしまいます。



基地を撤去・削減することが平和運動なのでしょうか?沖縄の平和運動には逆説的ですが、基地が不可欠です。基地があるからこそ、平和運動が成り立つのです。

沖縄の美しい自然と過密で怖い基地、戦闘機の騒音と繊細な琉球舞踊、事故への心配と竜宮城伝説の優しい心、これらは矛盾するからこそ、一層の存在感を際立たせていると言えないでしょうか。

基地が平和に役立たないと本当に信じるなら、それを訴えるべき相手は、正に軍人であるべきです。軍人を説得できない平和論はそれ自身、何の説得力もありません。「自分と相容れない人間を常に排除していく」ような運動が「平和運動」と呼べるでしょうか?なぜ、優しい兵士たちが、優しいが故に兵士になったのか、兵士たちを人間扱いし、胸襟を開いて語り合う中から、本当の平和運動が成立します。偏見こそが敵なのであって、人間を敵にしてはなりません。

基地を破壊と殺戮の場と非難することは簡単でしょう。本当に必要なのは、基地にたとえば、災害救助隊や人命救助隊のような役割を付加していこうとする地道な努力です。

基地が人類にとって全く無駄な施設と感じたなら、なぜ、一方でそこで働く兵士たちを救おうとしないのでしょうか?兵士たちの思いや人間性を無視する平和運動は単なる嫌らしい政治的プロパギャンダにすぎません。

ましてや、自分の生活圏から基地が移転してくれたら良しとする平和運動はごまかしにすぎません。目の前から「問題」が見えなくなれば、その「問題」が解決する訳ではありません。自分の周りに「危険」がなくなれば、あるいはどこかに「危険」をたらい回しにすれば「平和」になるのでしょうか?。

軍人を危険をもたらす厄介人と反感を持つより、彼らこそ危険の真っただ中にいる被害者と感じる優しさの心こそ、平和には大切なのではないでしょうか。


沖縄が「戦争の悲惨」を叫び、真の平和を願うなら、あえて「基地」を常に身近に置くべきです。「基地」を無くすことが目的ではなく、「戦争」を無くすことが目的なら、「戦争」と直接向き合うことを仕事とする兵士たちの声を聞くことが、第一に大切なはずです。そして、そのために、基地の閉鎖性を打破することをめざし、[良き隣人」以上の「友人」関係を築きましょう。

基地は確かに、危険や騒音をもたらします。でも、だからこそ、他の人や地域に押しつけるような事には反対すべきなのです。

沖縄は筆舌に尽くしがたい戦争惨禍を受けてきました。でも、その惨禍があった故に、平和の心を忘れないのです。基地を現存させることで、その危険や被害があるからこそ、この平和の心が続くのです。

平和は選挙運動やデモ行進で築かれるものではありません。勢力誇示や怒りの拳や背中を向ける姿で平和は築けません。平和は自分の心の偏見との戦いです。軍人家族との交流から、軍や基地を内部から変革してゆく平和運動こそ、沖縄に求められている、歴史的な使命であると私は思うのです。


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Posted by 基地共存推進会 at 01:53│Comments(0)基地との共存で平和構築を
 
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